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杜国は通称を坪井庄兵衛と言い、名古屋の御園町で壺屋(つぼや)という米穀商を手広く営む傍ら、町総代 |
をも勤める豪商であった。貞享元年芭蕉の「野ざらし紀行」の帰途、名古屋で作られた連句集「冬の日五 |
歌仙」作者の一人として加わった杜国は 尾張俳諧の重鎮としてその名を馳せていたが貞享2年 ご法度と |
されていた米延商(空米売買)の科により 家財没収の上、所払いとなつてこの地、畠村に移り住み程なく |
保美の里に隠棲することになった。 |
夢にまで杜国を見て泣いたというほど杜国の天分を愛した芭蕉は貞享4年10月「笈の小文」の途中、 |
鳴海より門弟越人を伴い 愛弟子の悲境を慰めようと25里の道を引き返し 保美の閑居に杜国を尋ねた。 |
再会した師弟がそのとき詠みあったのが、この三吟の句である。 |
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・麦生(むぎは)えて能隠れ家(よきかくれが)や畑村(はたけむら) 芭蕉 |
・冬をさかりに椿咲く也(つばきさくなり) 越人 |
・昼の空蚤(のみ)かむ犬の寝(ね)かへりて 野仁(のひじん)(杜国) |
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翌日 杜国の案内で同行3人は伊良湖崎に吟行の杖をはこんだ。芭蕉の名句「鷹ひとつ見つけてうれし |
伊良湖崎」は、このとき詠まれたものである。翌年2月、杜国は伊勢に渡り芭蕉と落ち合い、吉野の花を |
愛でた後、各地を吟行し 5月にこの地に戻ったが、2年後の元禄3年(1690)3月、望郷の念と吉野の |
思い出を胸に寂しくこの世を去り、潮音寺原に葬られた。行年34歳であった。 |
現存の墓碑は没後54年の延享元年(1744)に建立されたものであり、師弟三吟の句碑は杜国を慕う地 |
元の有志により明治28年(1895)に造られたものである。 |
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■俳人 杜国(とこく) |
本 名 |
坪井庄兵衛(通称:南彦左衛門) |
俳諧名 |
杜国、野仁(人)、万菊丸 |
俳 諧 |
芭蕉の弟子。「冬の日五歌仙」作者の一人。 尾張蕉風を担う重鎮。 |
生まれ |
明暦2〜3年頃(1656~7)〜元禄3年(1690) 34歳程にて没。 尾張名古屋の人(名古屋市御園町) |
墓 所 |
田原市福江町原の島 潮音寺境内(三吟の碑も同所) |
屋敷跡 |
田原市保美町仲新古 |
職 業 |
米穀商(米屋) 屋号;壺屋(町総代を務める豪商) |
罪 状 |
貞享2年(1685) 8月 当時ご禁制。米延商(こめのべあきない) 。空米売買 。
家財没収、処払い(尾張藩追放) |
渥美在住 |
貞享2年(1685)〜元禄3年(1690) 3月畠村より保美村に移り住む 約5年間 |
芭蕉来訪 |
貞享4年(1687)11月11日(越人と伴に) |
吉野紀行 |
貞享5年(1688)2月〜5月 芭蕉と伴に吉野に桜見物、吟行の旅 |
代表句 |
蓬莱や御国のかざり檜木山 |
「三つの顔」抄 |
陽炎に燃残りたる夫婦かな |
「鵲尾冠」抄 |
馬はぬれ牛は夕日の村しぐれ |
「春の日」抄 |
此頃の氷ふみわる名残かな |
「春の日」抄 |
つつみかねて月とり落すしぐれ哉 |
「冬の日」抄 |
朝鮮の細りすすきの匂ひなき |
「冬の日」抄 |
黄昏を横にながむる月細し |
「冬の日」抄 |
霜の朝せんたんの実のこぼれけり |
「阿羅野」 |
行秋も伊良古をさらぬ鴎哉 |
「鵲尾冠」抄 |
春ながら名古屋にも似ぬ空の色 |
「三つの顔」抄 |
吉野にてさくら見せふそ檜の木笠 芭蕉 |
「笈の小文」 |
よし野にて我も見せふそ檜の木笠 万菊丸 |
「笈の小文」 |
年の夜や吉野見て来檜笠 |
「鵲尾冠」抄 |
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